J 「真、善、美、輝く世界に住まんには神愛の心行へ。惜しむべからず。」
昭和五十四年八月一日 朝の御理解
御神訓 「わが子のかわいさを知りて、神の氏子を守りくださることを悟れよ。」
分かれよではなくて、悟れよとこういってありますですね。信心は悟りだといわれております。悟れた所から、そうせずにはおれない。まあ、そうしなければ、それが本当だという事が分かるのですから、信心がいよいよ身につくというか、本当なものになってくるというのは、悟りが開けた後をいうのだと思うですね。
おかげを受けるという事は、悟りだといふうに難しくいわなくても、もう分かればおかげになるというふうにいう人があるくらいですからね。
分からんからおかげにならんのだと。けれども、悟りというのは、分かっただけではない。悟りというのは、いわゆる心が助かるだけではなくて、勿論、悟りの境地におかげが頂ける、おかげが開けるという事でございます。
これは、あらゆる宗教で悟りと同じ意味の事を申します。特に仏教は、これは悟りという事を申します。けれども、どういう事が悟れてもですね、私は、それは人間の幸に繋がる悟りでなからねば本当のものじぁないというふうに頂いてまいりますとね本当の宗教というのは、もう本当にもう無いというてもよいくらいなんですね。
宗祖、又は教祖という方達がいわゆる大きな悟りの境地を開かれる。そこから、御自身が助かられる。素晴らしい教えが頂けれる。
私は、昨日は、御礼神話会に感じた事でしたけれども、今度の夏期信行にミニ御理解を頂きました。そして、今度の特徴というか、殆どその後先に教えの歌がついておる事です。それを昨日は、西岡先生が発表しながら、それを、あのう全部二巻の巻物の巻物にしておられるのです。ミニ御理解をずうっと書いておられる。その一つは、お歌ばあっかりをまとめておられるのです。それこそ、ここから転がしたら向かうまで行く位長く長い巻物になっておるんです。
勿論、見事な筆跡ですし、字も素晴らしいですけれども、それを昨日読み上げてもらいました。末永先生が、二度くり返し話して読みましたが、先生も大変感動しながら読みましたが、私もあれを皆さんに伝える時に、二度伝える二度目の時には、何か胸がいっぱいになるような思いがしましたけれども、今日の御理解で申しますとあれが神の心だという事です。ね、 我子のかわいさを知りて神の氏子を守り下さる事を悟れよ、と。いうならば、親情親の情をもって私共の上の事を思うて下さる。
親が子供が憎いとか、憎くないという事を、ね、もう、いわずもがな。親が子を思う思いは、どこの親だって同じ。一心情です。そういう厚い思いをもって私共の上の事を守り、そして育てて下さろうとする働きがいっぱいあるのですけれども、それをそれと、いわゆる悟らず、ね、はあ、自分はどうしてこんなに不幸な人間であろうかというふうに、かこったり嘆いたりします。
その悲しい事とか、苦しい事でも、なら、ひとたび、親の心が分かり神様の情が分かったらね、それこそ、今まで私のような不幸な者がと思うておったのが、私のような幸な者があろうかという心に変わる程しのものなんです。それが、悟り。ね、
いわゆる神愛を悟という事。私は、昨日、末永先生が読み上げるそれをずうっと聞きながら思わせて頂いた事は、もう、どの一つでも私の信心によって一ぺんコントロ-ルされるというか、私の信心によって、私の信心を遲過した言葉の結集だと思うんです。してみると、あれは私の悟りなんです。ね、そこに私の助かりがあります。
誰でもおかげを頂きたい、頂きたいと思わない者はありません。しかも、大きなおかげが頂きたい。もう、自分はこれくらいでいいという事はありますまい。
私は昨日、ミニ御理解のお歌を一つ例にとりましてね、
[真善美 輝く世界に住まんには 神愛の心 行へ惜しむべからず]とある。ね、 本当に真善美輝くような、世界に住みたい。私は合楽でしばらく御理解を頂いたらもう、いわゆる合楽理念、合楽理念という事をいわれるが、二、三日前でしたか、どなたか合楽理念、合楽理念というがどういう事かいっちょん分からじぁったら、おかげで合楽理念という意味が分かりましたという、ミニ御理解を頂いてから、そういった方がありましたがね。なかなか本当に分かっていないですね。
例えば、この御理解だけでも一つ頂いたら、いわゆる悟れたらね、只、おかげ頂きたい、おかげ頂きたいだけじぁいかんなあ。只、お参りする、拝むだけではいけんなあという事が分かります。
真善美といゃあ、いうならば、真の事、善といえば悪の反対の事。美というのは、見苦しいとか汚いという反対の心が麗しいという事。だから、そういう真善美に満ちた溢れるような世界に住みたいならばです、なら、先ず、自分が真の人にならなきゃいけない事が分かるでしょう。悪の心を捨てなきゃいけないでしょう。
汚いとか見苦しい、いうならば状態から脱皮したいならば、そういうものを先ず、取り除かねばいけないでしょう。真善美輝くばかりの世界に住まんには、とね。
いわゆる神愛の心、神情、神心とも教団ではお道では申します。その神愛の心、又それを頂く為の行い。行(ぎょう)を惜しんではならないとあるんです。
はあ、そうだと悟れたら、自分の悪を知るでしょう。それが悟れたらいよいよ自分の見苦しさが分かるでしょう。それが悟たらいよいよ自分のうそのもの、真ではないものを自分の心の中に感じるでしょう。感じるだけじぁありません。本当に真善美に輝くような世界がもしそこにあるとするならば、そういう世界に住みたい、しかもその世界があの世まで続くといわれるのですから、これは容易ならない事。
人間の一大、大悟。大きな悟り。もう、ここに極まった。例えば、昨日のミニ御理解の中にある、この歌一つ悟っても、そういう事にならねばおれなくなるのです。
これを、歌を覚えるとか、分かったという事ではないのです。それが、悟れた時にです、いよいよ真の生き方をしなければいけないなあ、限りなく美しくなろうといわれるが、本気で限りなく美しくならせて頂かねばならないと、いわば、一心発起もでけるというものなんです。
昨日、そのお歌を聞かせて頂いて、何首くらいあるか、丁度昨日のが入ってなくて五十四首でしたかね、西岡先生。という沢山な歌になっているんです。それがね、皆私の悟りから生まれたという事になる時に、なる程私がおかげ受けるはずだなあという事が分かるでしょうが。私は、あの歌の中に一つもうそはないです。私の信心。
私は、ここはでけとらんばってん、でけたごたるふうにいおうというのはないです そりゃ、出来てしまっとるとはいえません。けども、それに取り組んでおる事だけは事実です。それは、【 】と悟れたからそういう一心発起も出来たわけです。しかも、その一心発起させて頂いて、なら、あの歌をずうっと読ませて頂いてそれこそ、嬉しゅう、楽しゅう、しかも愉快に私が行じつつあるという事を思わせて頂く時にです、今日の御理解を頂いて、改めて思わせて頂くんですけれども、分かっただけじぁでけん、悟という所まで行かなければいけないという事です。
悟りというものは、分かったからその場で悟れるものではありません。ね、それこそ、おかげを受けたい、おかげを受けたいと思い続ける。どうでも、この世、あの世を通しておかげを受ける為には、天地の御信用である御神徳を受けなければならない どういう信心をさしてもろうたら、御神徳が受けられるであろうか、寝ても覚めてもその事を思いに思い続けるという事。そして、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、それを実験してみる事。そこから実証が生まれてくるという事。そして、そこになる程というものがついた時にです、それこそ、「はっ」と思うように自分の心に悟りが開けてくるのです。そこにはね、眠さとか、きつさとか、辛さといったようなものは無くなる世界があるんです。いよいよ身につけていかねばならない一番大事な事はです、親が子を思う情念、その情念のそれこそ、どれだけ幾万倍か分からない程しの思いをもって天地金乃神様は、私共氏子一人一人の上の事を思うて下さるんです。
昨日研修の時、夕べの神話会の時にお話した事でしたけれども、何というても合楽の信心はです、実験そして一辺でそれが答えが出るという事は無いにしましてもですこれが絶対だ、本当だといわれる所を、本当に自分のものに頂かせてもらったらです必ず、実証があるという事。
昨日、竹内正教先生が発表しとりましたが、やっぱり昨日の晩ですね、あのう、マホメットの伝記と申しますか映画を見せてもらって僕は一番感じた事は、それはもうキリスト教が生誕から六百年もたった後に、あのマホメットという人は現れた人だそうですけれども、マホメットが説いておる「コ-ラン」というですかね、教えというものはその当時としては素晴らしい教えであったろう。所が、今、合楽理念を勉強させて頂いておる僕たちが見ると感じると、天地程の開きがあるという事を感じるといっております。
昨日、久富先生が夕食前でした。もう私は今朝からたまがりましたち。何でそげんたまがったのちいうたら、私は、家内がお参りはしませんばってんから、合楽理念は知っとりましたというんですよ。
「ほう、なら、そのあんたがずうっと話して聞かせよるけんじぁろ」ちいうたら、「いいえ、そうじぁなか」。やっぱり新聞やら御本を読みよっとじぁろ。昨日の朝、キリスト教のおすすめに見える方がみえたそうです。しばらく聞いとったが「現在のキリスト教はもう過去の宗教ですよ」ちいい出したち、家内が。びっくりして前晩あの映画ば見とったつじぁなかじぁか、と私は思いましたがね、もう、キリスト教は過去の宗教。
私の方は、パパも私も元はクリスチャンだったけれども、今は、金光教に変えて金光教で今いわれる合楽理念というのは、こういう事を教えられます。こう言うことはキリスト教も知ってなかったち。違いないといったような事をその話たち。黙って聞きござったが一言もいわずに帰られたという話をね、その久富先生が聞いてからね、大変喜んで話されるんですよ。いつの間にか、あげなこつが分かっじぁろかと昨日聞きましたがね。
確かに、過去の宗教です。仏教においても同じ事です、何故というて、実証が伴わないようになっとるでしょうが。どんなにお釈迦様の言葉を行じたからというて、又、行じられんのです。例えば、十戒とか五戒とか厳めしいというか、その難しい事は行じようにも人間として行じられない。人間を止めねば出来ないです。
というふうに難しいわけですけれども、いうならば、助かりようのない宗教。そこに最近いわれる金光教の信心は、しかも合楽は金光教が宗教以前の宗教だと説かれるのは、そういう所為だと申します。
そういう意味をいろいろ含めてでしょうけれども、天地程の開きを感じましたけれども、そういう宗教、その当時の人がです、なら、「コ-ランの教」を命がけで広めた事には頭が下がると発表しました。私は、それを聞きながら思いました。ここで、合楽理念、合楽理念、合楽理念といって沢山おかげを頂いていく手立てにはしておるけれども、その合楽理念を命がけで広めていこうとする人はそう沢山はいないという事です。ね、
その程度、程度というては失礼ですけれども、でも、それに命をかけて広めようとした人達の魂ですか、心というものは敬服に値します。ですから、私達もそういう素晴らしい教を頂いとるのだから、それを命がけ、だからここで、黒衣をまとうてお道の教師の資格でも取ろう、又取っておるという人達はもう多かれ少なかれ、生涯をその事にかけるというのですから、まあ、それが本当は命がけという事になってくるでしょうけれども、そこに命がかけられるという事は、一生懸命という事なんです。
一生懸命という事は、一生命を懸けると書いてある。それがね、そうだと分かっておりながら、飜然ぜんとしたものになる為には、いわゆる悟りを開かねば生まれてこない。だから悟りというのは、聞いて分かるというのではないけれども、今日の今、御理解じぁないけれども、神愛の心、行いを惜しんではならない。というこの惜しんではならない、ね、その惜しんではならないという所をです、ね、一生懸命行じていく中にです飜然として開けてくるものがあるんです。それが悟りなんです。
その悟りの第一は、やっぱり神様が、親の情をもって、子供の可愛くないものはないが、その可愛くて、氏子幸になってくれ、というその一念だけで私共の上を見守って下さるそこには難儀そのものもです、それは難儀ではなくて神愛だと悟れた時に、いうならば、お礼のいえれる心が開けてくる。それが真に有り難い。その有り難いという心がすぐに霊験のはじめといわれるのですから、ね。
分かった。だから分かった事を行ずる。行いの上に、それを現して行じてゆく中に本当の、いうならば、悟りというものが、開けてくるじぁないでしょうか。
私は夕べ、その五十何首の歌を聞かせて頂きながら、もう、その一首の歌にでも、私のそらぞらしいというものは一つもないです。私の信心から生まれたもの。
私が常に思うておる事があの歌の表現になっておるという事。してみると、あれは私の悟りの結集だというてもよいという事になります。そこに、ささやかながら、いうなら合楽では素晴らしい、素晴らしいという、その素晴らしい真善美に輝くとまではいかんでも、そういう世界が合楽で開けておるという事がいえます。
大きなおかげを頂きたいならば、大きな心にならなきゃならない。真善美に輝くような世界に住む為には、いわゆる、真善美というものが自分の心の中に足ろうてこなければ出来ない。足ろわずして、真善美の世界に住んでいると、例えば致しましてもそれこそ、釣り合わざるは不縁のもとですから、入ったばかりですぐ出てきにゃならん。という事じぁなくて、自分のものにする為には、先ず、真善美のいうなら、心の世界を開かせてもらう行いであり、行が必要であるという事でございます。
どうぞ。